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「地頭」って何だ?(前編)

荘園制度の守護、地頭ではない。「ぢあたま」である。人事ムラの言葉。

ぼんやりとした概念で、定義は人それぞれではないかと思う。


10年以上前、ある会社が出身大学を聞かず採用すると聞いて実態をヒアリングに行った。その会社の担当者はあっけらかんと「ええ、でも出身高校は聞きますよ」と言う。採用者のその後を追跡調査した結果、「地方の旧制中学の高校出身者を中心に、成長する人材と出身高校は有為な関係があると分ったから」だそうだ。

また、ある超有名企業のトップと話をしていたら、全国津々浦々の有名高校が頭に入っていて驚いたことがある。

人物評価に欠かせない要素だという。


企業にとって伸びる人材とは、OJT、ジョブローテーションの成果が大きい人だ。

もちろん、凄いひらめきでいきなり結論に辿り着く天才や、どんな些細なことも見逃さない

論理的思考力を持った人材は、上司、部下、同僚にも居る。そういう尖った人材ではなく、

できるだけ多くの優秀人材を確保し育てたいという人事の立場から見て、成長確率の高い人が「地頭の良い人」である。特に採用ではこれを見抜く力が必要になる。


以前は大学の格で採用ができた。しかし、大学の偏差値と地頭は比例しなくなってきている。

これは低位ランクの大学の話ではない。難関大学の学生を採用する際にも、地頭の低い層が増えたと感じる。

結論から言うと、筆者は地頭の構成要素の大部分は「幅広い教養の力」であると考えている。

残念なことに、職業教育のベースとなる教養教育(日本語訳が良くない。英語のLiberal artsの方がイメージに合う)がダメになった。これは大学入試問題の質低下と、それに呼応した高校の大学受験用の知識偏重の教育が直接原因。

数少ない教科で合格できる大学の偏差値が上がる、という現象も起きた。今の高校生、特に新設の受験校では驚くほど学習教科が少ない。大学の教養課程の負担は以前とは比べものにならないほど大変だと聞く。


ここでは「知識」は教養とは別の概念で考えて行きたい。例えばTVのクイズ番組は「知識」の大会であり教養ではない。

さて、その弊害と対応策については、次回に詳しく述べたい。



<文・金融、経営管理アドバイザー 博雅>

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